山口二郎氏のスピーチを振り返って

5月14日に開催された、信州市民連合主催イベント「5.14青空アクション in 松本」における法政大学教授・山口二郎氏のスピーチを下記にご紹介致します。

https://youtu.be/a93hynQmQ4g

「世の中はこう平和なのですけれども、国の仕組み、政府の権力を動かす仕組みが、戦争のできる国に向けて着々と整備されている」

「戦争のできる国には、いくつかの大きな特徴があります」

※スピーチの主な内容の書き出しは以下の通り。

戦前、どうやって日本が戦争を始めたか、転げ落ちていったのか、ということを知るために、当時の知識人の日記を読んでみると面白いです。

私は永井荷風(ながい かふう)、という人が好きで、永井が書いた日記を何度か通して読んだことがあるのですが、満州事変が始まっても、むしろ戦争で景気がよくなった、というような感じで、街には人があふれ、お酒を飲んだり、音楽を楽しんだりで、みんな日常を楽しんでいたんですね。

ところが、日中戦争に向けて、だんだん国が戦争に向けて動いてゆく、気がついたら、軍部によって報道が抑えられ、知識人の活動も抑圧される。
後戻りできなところを過ぎてしまった、ということがよく分かり
ます。

今の日本はどうかというと、第二次安倍政権ができて、まず、特定秘密法という、政府にとって都合の悪い情報を隠す、という制度ができた。
そして、一昨年は、閣議決定によって、集団的自衛権の行使容認が決定された。
さらに、昨年は、安保法制が国会で強行採決された、ということで、世の中はこう平和なのですけれども、国の仕組み、政府の権力を動かす仕組みが、戦争のできる国に向けて着々と整備されている、ということが言えるわけですね。

戦争のできる国には、いくつかの大きな特徴があります。
一つ、それは、政府が真実、事実を覆い隠し、国民を騙す、欺く、ということです。
国民が真実を知ったら、戦争はおかしい、と声を上げますから、戦争のできる国の政府が、事実を隠すわけですね。

今の日本はどうかと言いますと、言論の自由、出版の自由はあるのですけれども、今のテレビ、新聞のていたらくを見ていますとやっぱり、事実を覆い隠す、国民を欺く、という体制が、できていると私には思えます。
総務大臣が、政治的な中立を破ったテレビに対して電波を止める、というのも、その一つの現れです。

戦争のできる国、その二、個人と政府の関係が変わります。
民主主義の国では、個人が主権者として政府をつくる、主権者を選ぶ、そして、個人のために政府が仕事をするという関係があるわけですが、戦争のできる国では、国のために人が存在する。
国のために人が動員される、という体制ができてきます。

今の日本でもその兆候があるわけなんですね。
戦争のできる国では、人間の多様性というものが否定されるわけでありまして、要するに、昔であれば服装、髪型などを統制する。
今の時代であれば、為政者、その周りにいる人たちが、女性や若者に対して説教をする、生き方を教えようとするわけですよね。

早く結婚しろとか、子どもを産めとか、要するに国のために個人を道具として使う、という思想が当たり前になってゆく。
その兆候が表れています。
やはり、個人の存在が、国のため、という道具の位置づけになってしまう。
これが、戦争のできる国、二つ目の特徴です。

三つ目の特徴が、知ること、考えることを、政府が憎むようになることです。
政府は、今、国立大学における人文社会系、世の中のこと、歴史や思想や哲学のことを考える、という学問を、非常に邪険に扱う。
抑圧しているわけなんですね。
知識人の活動に対して、邪魔臭いと思ったら、抑圧を加える。

今の時代、とくに教育の面でも、かつて進んできた、間違った道を、繰り返している気が私はします。

(略)

事実と物語を区別する、ということは、私たちが世の中について考える上での基本中の基本です。
戦争のできる国では、途方もない神話などで、人々を動かした経験があったわけです。
国民に、途方もない思い込みや、偏見を教え込んで、戦争に動員していったわけなんですね。

昨年の安保法制、一体全体、何が変わったのか、少しおさらいをしておこうと思います。
私たち日本は、憲法9条のもとで、戦争はしない、という国を続けてきました。
集団的自衛権を行使しない、ということは、戦争をしない上で非常に大事な原則、原理でした。

自衛隊の存在は、憲法9条の枠の中で、防衛だけに徹する、ということであれば、憲法に反しないという理屈の中で、今までの自民党政権は日本の防衛政策を説明してきたわけですね。

自国のためだけに戦力を使う、ということは、論理の必然として、他国のために自衛力を使うことはない、従って集団的自衛権の行使は憲法違反である、こういう論理が存在しているわけです。

もし、安倍首相の祖父である、岸信介という人が、1960年の安保闘争の後、総理をやめずに憲法改正に成功していたら、その後の日本はどうなっていたのか、考える必要があります。
集団的自衛権が容認されていたら、どうなっていたか。

日本は間違いなく、1970年前後のあのベトナム戦争にアメリカの要求に応えて、兵をおくるはめに陥っていたでしょう。
現に、隣りの韓国は米韓相互防衛条約という集団的自衛権の条約の中でアメリカの要求に屈して軍をベトナムに送り、殺し殺されるという悲惨な経験をしていたわけですね。

憲法9条という守りがなければ、日本も同じ運命を辿っていたに違いないわけです。
従って、9条の元での集団的自衛権は使えない、というこの安全保障のガイド方針が日本の平和を守ってきた、ということが言えるわけですね。

日本を取り巻く安全保障環境の悪化と政府はよく言うわけですが、それだったら、個別自衛権、日米安保の運用の話でして、アメリカないし他の国が起こした戦争を手伝うためにどこへでもいくという安全保障法制をつくる必要は全くないわけですね。

客観的な必要性が全くない、という安保法制をつくった安倍さんの狙いというものは、憲法改正、それ自体が目的なんだ、爺さんの無念を晴らすんだ、というそれだけしかないと私は思うわけです。

そのような憲法の破壊に対して、良識ある市民が危機感をもって、様々な反対の運動を起こしました。
昨年、安保法制が成立したあの日は、私たちにとって決して、敗北の日ではなく、新しい戦いが始まった日であったわけですね。

そして、私ども、東京で反対運動をしていた者は、シールズの学生、ママの会の女性の皆さん、学者の会、立憲デモクラシーの会、総がかり行動実行委員会の労働組合系のみなさん、これが集まりまして、安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合という団体を結成致しました。

そして、今年の夏の参院選、同日選に向けて、野党が協力をし、この憲法破壊の安倍政権の企てにストップをかけるべし、と言って、戦って参ったわけであります。

今年の憲法記念日に各新聞、テレビなどが行った世論調査を見ますと、非常に興味深い現象が現れています。
朝日新聞の調査によりますと、安倍政権のもとで憲法改正を実現することに賛成の人が25%、反対の人が58%でした。
2007年、第一次安倍政権のとき、同じ質問をしたら、賛成が40(%)、反対が42(%)でほぼ拮抗していましたが、今年は、賛成25(%)、反対58(%)、ダブルスコア以上で反対が増えています。

そして、9条についても、変えない方が良いが昨年の63(%)から今年68(%)に増えた。変える方が良いが、昨年の29(%)から27(%)に減ったわけですね。

アクティブな市民だけでなくて、普通の国民にも、今の安倍政権がやっている憲法改正には反対したい、という人が急激に増えている、というこの現実を見ると、私たちは決して孤立していない、ということを感じるわけです。

こういう大きな市民の、憲法守れ、安倍政治おかしいぞ、という想いを受け止めて、野党がようやく協力、結集の体制をつくって参りました。

我々、正直に申し上げますと、市民連合を立ち上げて、色々な働きかけをしたときに、やはり既成政党というのは立場とか利害があって、なかなかすっきり協力できないものだなと、無力感に浸った時期もありましたが、やはり、市民のこうした想いが、野党の背中を押している、ということを痛感致します。

今年の2月19日に、野党が協力をして安保法制の廃止法案を、議員立法で提案をしたその日に、参院選に向けた野党の協力ということで、当時野党5党の党首が合意を致しました。

その後、一人区で着々と野党統一候補の擁立が進んできたわけですね。長野県もその中で素晴らしい野党統一候補の擁立ができているわけです。

昨年9月の悔しさを、選挙で晴らすんだ、という本当に一所懸命、動いている。盛り上がっております。
4月には衆議院北海道5区の補欠選挙がありまして、明確な自民党対野党結集という対決の構図ができました。

残念ながら、負けはしましたが、現職の有力な自民党議員の亡くなった後の弔い合戦で、ダブルスコアで負けるような選挙を、すれすれの接戦まで持ち込むことができた、ということ。

共産党も含む野党結集について、そんなことをやったら、民主党の中の一部の保守票が逃げる、などということを言っていた人もいましたが、北海道5区の補選を見る限り、野党結集はやはり、足し算として成果を出している。
2+1が4,5とまではいきませんが、2+1が3.3か3.5くらいになっている、票をみると。

ですから野党がまとまって、今の安倍政治に対してこういう選択肢があるのだと動くと、多くの市民がやはりそこに自分の想いを託す、という行動をした、ということが、北海道5区の補選から明らかなんですね。

民主主義というのは、政党が出してきた候補者を選ぶ、そういうことだけではなくて、選挙のプロセスに関わっていって、候補者に対してこういうことをして欲しい、こういうことはしちゃいけないね、という政策の議論をする。

そして、自分の想いを託せる候補者が見つかったら、今度はその人が勝てるように、できることを一所懸命にやる。
こうやって、集会に出ることも立派な行動ですよね。
そういう理念を共有できるのだったら、一緒にやろう、という心を一つにする、ということ、これだって立派な応援活動です。

今回の参議院選挙、市民が結集して野党の協力を促した、ということで、戦後の日本の民主政治の歴史の中で、非常に画期的なことが今、目の前で進んでいる、ということ、私は声を大にして申し上げたいと思います。

そして、そういう市民が政党政治を作り上げている、今日もその現場に参加しているのだ、ということを申し上げておきたいと思います。
この長野の地からも、野党結集によって、憲法と立憲主義と平和を守っていく、戦いを強く広げていって頂けるよう、お願いを申し上げて私の話を終わりと致します。

5_14_yamaguchi

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA